森のようちえん「まるたんぼう」
前回にひきつづき、
鳥取県智頭町でのオルタナティブ教育体験レポート。
下の子は鳥取県智頭町の
森のようちえん「まるたんぼう」で
二日間の体験入学をした。
体験入学は親も一緒に
付き添いをしたのだが、
私にとって、
一生忘れられない経験に
なるんだろうなと
という感想。
森のようちえん「まるたんぼう」
“必要なことは、森が全て教えてくれる”
私が「まるたんぼう」の教育方針で
心底感動したのが、
「何もしない」をしてくれること。
崖みたいな急な登りを(もはや道はない)
這いつくばって登る子供
川の中で
長靴も洋服もびちゃびちゃで
遊ぶ子供
苔でツルツルした倒木の上を
渡りながら遊ぶ子供
自分の背よりも
ずっと高いところから
ジャンプする子供
取っ組み合いのケンカを始める子供
「あぶない!」
「汚い!」
「だめ!」
この言葉を言わず、
ただ見守ってくれる教育機関が
どれだけあるだろうか。
いや、これができる大人が
どれだけいるだろうか。
でも、本当に何もしてない
わけではなくて、
木から落ちたところに、
頭を打ったら危なそうな石があったら、
そっと取り除いたり、
大怪我に繋がりそうなことは
さりげなくカバーしたり、
川に流されて、溺れた子を
助けられるように
川下で見守っていたりはする。
ただ、穏やかな表情で
「本気で見守っている」
先生の皆さん(先生とは呼ばれてないのでなんとお呼びすればいいのか....)は
森の草木の知識も深いが、
子供たちには積極的に
名前を教えるわけではない。
聞かれても「何だろうね〜」
「名前を知ると、
知った気になっちゃうんですよね。
それよりも、「触ったらかぶれる葉」
「実がおいしい木」「泡遊びができる実」とか、
体験の中で感じてほしい」
本では「毒があるので触らないように」と
書かれた植物も、
過度に反応はしない。
「本はおおげさ。
触ってもちょっとピリッとするだけだったり、ちょっとかぶれたりするだけなものもたくさんある。死にませんから。」
初日、
うちの息子は一人の先生に
頼みたいことがあった。
三又を見つけた、園児たちが
先生からノコギリを貸してもらって
切っていたのだ。
うちの息子も切ったのだが、
自分が切った棒がみんなより短いのが
気に入らず、もう一度ノコギリを借りて
切りたいのだが、恥ずかしくて
なかなか頼めないのだ。
私に
「ノコギリしたい〜.....先生に言って!」
と、それはもうしつこく言ってきたのだが、
「お母さんは何もしないよ。自分で頼んでごらん。すぐに貸してくれるよ。」
と返し、彼はできないよぉと言いながら、
三又を見つけたら、先生の前まで行き、
もじもじと頼めず、
先生たちも
「ぼく、あっち、先に行ってるね。
お話したかったらまたきてね。」
と去ってしまう。
先生たちも、息子が何を言いたいのかは
分かっていたのだけど、
彼からの一言をゆっくり待っていたのだ。
「他の人たち(この園では、子供たちのこともあの人この人と呼んでいた)も、始めは自分から頼めなかった人ばかり。でも、出来なくて悔しくて眠れぬ夜があるから、次こそは!とできるようになるその過程が大事なんだと思います。」
わたしは、すごく共感した。
一般的には「できる体験」「成功体験」は
重要視しがちだが、
「できなかった、悔しかった体験」も
等しく必要な体験だと思うのだ。
帰り際、バスに着く前で彼が見つけた
最後の三又。
先生にノコギリを貸してほしいと
言いたいのに時間だけが過ぎてゆき、
結局先生が通り過ぎる前に
その一言が言えなくて、
彼は号泣した。
帰り前の絵本タイムに参加せず
ひとしきり泣き、
私は「まだみんな絵本読んでるから
先生に聞いてみたら?」と言った。
彼は必死の勇気で
手の空いてる先生に
蚊の止まるような小さな声で
「.....ノコギリ貸して」と
ついに言ったのだ!
彼の恥ずかしがり屋な性格を考えると
今日は言えずじまいだろうなと
思っていた分、かなり驚いた。
「ごめんね、もう帰る時間だから今は貸せないよ。明日、貸してあげるね」
と断られ、まぁごもっともだと思ったが
彼はまた大泣きだった。
それを聞いていた他の先生が
「私、まだいるから、私の使ってもいいよ。でもバスが出る前に返してね」
と貸してくれ、
彼は急いで三又を探し、
初めてのノコギリの切り傷に
ちょっとフリーズしながらも、
夢中で納得のいく長さに切った。
自分で掴んだ小さな成功が
彼の表情を少し
凛々しくした。
私は小さく感動していた。
大人が見守るを徹底するだけで、
1日でこんなに成長するのかと。
次の日も、
始めはいじめてくる子に
やられっぱなしだった息子だが、
その子よりも長い木を持ってきて
「やめろー!」と立ち向かったのだ。
でも、まぁ結局木は折られ、
返り討ちに合っていたけども....(苦笑)
その中でも、
「叩いたらダメだよ!」と
止めてくれる子がいたり、
子供たちの社会にわたしも
任せることにしたのだ。
負けたけど、
立ち向かった息子が誇らしかった。
もし、大人が介入していたら、
決して見られなかった光景だ。
息子はそのいじめてくる子に対して
家では「〇〇くんとは絶対にあそばない!」とか言っていても、
次に魚の掴み取りイベントに参加したら、
なんだかんだで一緒に遊んでいたりして
なんだか微笑ましくもあった。
子供たちにとっては
その程度のことなのかもしれない。
たった二日だったのに、
ここには書ききれないけど、
色々なエピソード満載だった。
先生たちの在り方からも、
個人的にはめちゃくちゃ多くを学んだ。
(あぁ、この話もまた別で書きたい....)
そして何より、
子供のペースでふらつく森歩きの中で、
わたしは自分の体液が
これまでとはまるで違う
新鮮で瑞々しい液体に変わったような
不思議な感覚を覚えていた。
肩の力が抜けて、
緩んでいく。
でも、緩み過ぎず、ほどよい。
こんな幼稚園で育った子供たちは
どんな大人になるのだろう。
森を出て、都会に行き、
でもきっとまた
森を求めるんだろうな、と
私は思った。
「森」という先生に
匹敵する存在は、そうそういない。
↑やっと借りられたノコギリで三又を夢中で切る息子
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